タイ鉄道新時代へ

【第28回(第2部第10回)】盲腸線(上)サワンカローク線とスパンブリー線

行き止まり路線で輸送上重要な役割を果たしていないとされる鉄道路線を一般的に「盲腸線」と呼ぶ。かつて日本の国鉄にも数多く存在し、合理化の対象となって次々と廃止をされた。総延長4,000kmに及ぶタイの国鉄にもいくつか存在し、大赤字を抱えながら1日わずか1便程度の運航を細々と続けている。旅情満載ながらもいつ廃止になるかとも分からぬ超ローカル路線。今回からはこれら盲腸線と計画をされながら断念された幻の路線などを数回にわたり紹介していく。(文と写真・小堀晋一)

フアランポーン(バンコク)駅を毎日午前10時50分に出発する3番列車は、北部ウッタラディット県にあるシラアット駅を終着とする特急列車。片道を約8時間半かけて走行し、終着駅で30分近く停車すると、今度は4番列車となって始発駅に引き返す。最終到着は翌日午前4時が定刻だ。バンコクからの下りは途中、終着から5つ手前のバーンダーラー駅(分岐駅)でスイッチバックし、北部本線の支線サワンカローク線(28.83km)に入る。サワンカローク駅(スコータイ県)では30分ほど停車。来た路線を引き返しバーンダーラー駅から再び北部本線を北上する。だが、上りはこのような運行はしない。サワカローク線は通過となり沿線の人々は1日1便しか乗車の機会がない。沿線住民のため近隣区間に限って1人50バーツの均一運賃体系が採られている。

サワンカローク線は政治的な思惑から建設された鉄道だった。開業した1906年ごろ隣国ビルマ(ミャンマー)は英領インドの統治下にあり、宗主国英国は民間資本を使って南東の港湾都市モールメイン(モーラミャイン)からタイ国内のターク県を経由して中国雲南に至る鉄道建設を画策した。当時、ビルマ国内で採用されていた軌道はメートル軌(1,000mm)。一方、当時のタイのチャオプラヤー川東岸地域では標準軌(1,435mm)を採っていた。英国に国土を二分させるような鉄道は作らせない。そう考えた政府は先手を打って積み替えや乗り換えを余儀なくさせるため標準軌の鉄道を計画。北部本線から支線を伸ばしタークまでの整備に乗り出したのだった。

だが、第1次世界大戦の終焉とともに和平に向いた国際情勢を背景にサワンカロークからの延伸は凍結。1920年代には国内の全軌道も周辺国との接続を念頭にメートル軌に改められた。サワンカローク線はチャオプラヤー川の支流ヨム川とナーン川を結ぶローカル線として取り残されることになった。

転機は第2次大戦の到来ととも訪れた。タイに進駐した日本軍はビルマ国内への兵や軍需物資の輸送方法を検討していた。その一つがバンコクから北部本線を経てサワンカローク線に入り終着駅で自動車に積み替え、ターク県メーソートからモーラメインに至るというルートだった。さらに、大戦末期になって首都圏の鉄道設備やバーンダーラー駅の手前にあるナーン川鉄橋が爆撃され北部本線の直通運行ができなくなると、バンコク~ピッサヌローク間は水運、その先サワンカロークまでが自動車、サワンカローク駅から北部本線というルートが考案された。同駅がタイ北部に向けた事実上の始発駅として機能するようになった。

一方、スパンブリー線は開業が戦後の63年と遅いながらも、同様に政治的要請から建設された路線だった。チャオプラヤー川西岸を北上する鉄道を自前で作るという構想は1906年の鉄道局の「鉄道建設計画」にも盛り込まれている。その後の国際情勢の変化で一度は見送られたが、戦後になって再び浮上。戦時中にチャオプラヤー川に架かるラーマ6世橋が破壊され鉄道網が寸断したという苦い経験を受けて、有事の際のバイパス線として川西岸を北上する新線の建設が急がれたのだった。閣議決定された53年にはラオスが独立し内戦が勃発。北方の警備を固める必要も生じていた。

分岐駅には南部本線のノーンプラードゥック駅(ラーチャブリー県)が選ばれた。旧泰緬鉄道の一部区間カンチャナブリー線が既に再開されており、乗り換えの利便性が考慮された。政府の「国際交通路構想」も後押しとなったが、接続が見込まれたビルマではカレン族との内戦が発生。タイ国内では財源不足が深刻化、国家経済開発委員会から採算が見込めないとの反対もあって工事は58年に中断。スパンブリーまで29.36kmを残すだけで放置される結果となった。

再開は独裁政治で鳴らしたサリット首相の一声で決まった。鉄道をことごとく嫌悪した首相が例外としたのが同支線だった。理由は今ひとつ明らかになっていないが、沃野が広がるスパンブリー県は国内屈指のコメどころ。南部本線を経由して国際的な貿易港であったマレーのペナンに輸出米を直送する狙いがあったものとみられている。こうして63年に現在の路線が開業。直後には国連機関が「アジア縦貫鉄道構想」を掲げたが、利用客の伸び悩みから延伸は実現しなかった。

そんなスパンブリー線に一度だけ転機とみられるチャンスが訪れたことがあった。95年7月、同県出身のバンハーン氏が首相に就任。延伸の可能性が模索されたのだった。首相が選挙区の地元に様々な公共工事を誘致したことも期待を膨らませた。だが、バンハーン政権は政策の失敗から経済の停滞を招き、閣僚らによる汚職も発覚。内閣は支持を失い政権から転落すると、支線延伸の可能性は完全に潰えてしまった。

かつては1日2往復あったスパンブリー線は現在、始発駅をフアランポーンに変え、1日1往復の運行を続けている。バンコクから鉄道で日帰りすることはダイヤ上不可能で、現地で宿を取るなどしなくてはならない。折り返し便も午前4時半出発と使い勝手は良くない。ただ、だからこそ旅情があて良いという声は根強い。終着スパンブリーの1.5km先には時刻表にもない幻の終着駅マーライメーン駅があり、列車はここまで運行して客を降ろす。近くには国道321号線が走っており、住民の利便性を考えての措置らしい。謎に満ちたローカル線。鉄道ファンにはたまらない。(つづく)

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