タイ鉄道新時代へ

【第93回(第4部9回)】 悲願の新線デンチャイ~チェンコーン線その3

計画の立案から80年。悲願の北部鉄道新線デンチャイ~チェンコーン線は、プレー県デンチャイからほぼ真北に進み、チャオプラヤー川の支流の一つヨム川やガーウ川沿いに沿って建設される総延長323キロ。ところが、前身となるもともとの構想は大きく異なり、北部本線の終点チェンマイから北東に延伸するルートとなっていた。終着駅もチェンライ県チェンコーンではなく、同じメコン河畔でもゴールデントライアングルで知られる同県チェンセーンだった。連載内小企画の第3回目は、北部チェンライルートの変遷と、現在のルートのうちプレー県からラムパーン県ガーウ、パヤオ県に至る区間を概観する。
(文と写真・小堀晋一)

前々回で触れたように、現在のデンチャイ~チェンコーン新線が初めて事業計画として認定されたのは戦前の1941年のこと。国の「全国鉄道建設計画」に明記されたのだった。この時の計画ではデンチャイから分岐した新線はプレーから北北東に進み、ナーン県で北西に進路を変え、パヤオ県北部チェンカムを経由。さらに北西に進んでチェンライに到着するというルートだった。

ところが、戦後の64年に国鉄が行った調査で、プレーから北北西方面に進み、国道1号線沿いにラムパーン県ガーウ、パヤオを経由したほうが、所要時間が短くなることが判明。現在のルートに変更された。ただ、時はサリット・タノーム両政権下の「開発」の時代。大規模規格道路の建設が優先され、新線建設に充てる予算が計上されることはなかった。

驚くのは、これよりも半世紀以上も前にチェンライ県まで通じる鉄道敷設構想がタイに存在したということだ。1世紀半近く前の1888年、タイ政府は全国に鉄道網を敷設する方針を立て、英パンチャード社に調査を依頼。この調査結果の中に、チェンマイから先の支線としてチェンライ市街地を経由、メコン河畔の街チェンセーンに至るルートを見ることができる。これが、チェンライ県に通じる最古の鉄道建設構想である。

ただし、それはプレーで発生した少数民族の反乱や当時の国際情勢から早くも見直しが求められる。1906年に鉄道局が策定した「鉄道建設計画」では、チェンライ県に至る支線は現在のデンチャイの一駅手前メープアック駅で分岐。現在の建設計画と多くが重なるプレーからチェンライ、チェンセーンを結ぶルートに変更されていた。完成予定は10年後とされた。

注目されるのは、いずれの案でもチェンライ市街地を終着地とはせずに、メコン河畔チェンコーンまで延伸させている点だ。21世紀になって第4タイ・ラオス友好橋が建設され、それが決め手となって新線の終点がチェンコーンとなったが、同じような理由からだろう。当時はチェンセーンのほうが、メコン交易は盛んだった。中国雲南省に通じる交易路と接続させようという意図があったと思われる。

ただ、それも財政悪化やマレー半島を南下する南部本線の建設が優先されるなど事実上棚上げの状態が続いた。幹線であるチェンマイまでの北部本線は22年1月にどうにか全線開業したが、チェンライ支線についてはとうとう着工されることはなかった。以来1世紀。幻の鉄道と呼ばれるようになったのもこのためだ。

 

 

デンチャイを発った列車は、まずプレー市街に停車する。チャオプラヤー川の支流の一つヨム川が形成した台地にあり、県内の80%は山地という山間の県。主産業は農業で、稲作のほか大豆やトウモロコシなどの栽培が行われている。

次の主要な停車駅が、ラムパーン県ガーウだ。天然資源に恵まれた同県は林業が盛ん。20世紀前半ごろまで、切り出したチーク材は北部本線でバンコクの港まで運ばれ、ヨーロッパへと持ち去られた。ビルマを支配した英国人がビルマ人労務者を多数連れてきたことから、この地方にはビルマ式寺院が多数残っている。ガーウの隣郡のメーモ郡では良質な褐炭が算出され、火力発電所が立ち並んでいる。

プレーから車で2時間のところにあるのが、3県の中では最も古い歴史を持つパヤオだ。11世紀後半には小国を意味するムアンが存在したとされる。中国雲南省からタイ族が南下する際、最初に到達した大規模盆地の一つがここだった。肥沃な土地で周囲の山々も美しかった。間もなく誕生したムアンは、スコータイ王朝のラームカムヘーン大王やラーンナー王国のマンラーイ王とも盟友関係にあったとされている。

街の中心部にあるクワンパヤオ湖は、タイ北部最大の淡水湖。50種以上の淡水魚が生息し、幻想的な夕暮れの光景は観光客の人気の的だ。次回は、チェンライ県へ。(つづく)

2022年1月1日掲載

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