タイ鉄道新時代へ

【第94回(第4部10回)】 悲願の新線デンチャイ~チェンコーン線その4

2025年に開業予定の北部本線のデンチャイ~チェンコーン支線の建設工事は、昨年12月29日に地場ゼネコン大手などが組織する共同企業体(コンソーシアム)がタイ国鉄と最終的な契約を締結。着工はいよいよ秒読みに入った。全長323キロの新線は工区を3つに分け、総事業費は729億バーツ(約2500億円)。受け持ち区間も正式に固まった。構想浮上から80年、1960年代の政府調査開始からでも半世紀が経ち、ようやく実現に向けて動き出す。連載内小企画の北部チェンライ・ルートは今回が最終回。パヤオから先メコン川を目指し、一気に概観する。

新線の工区は3つ。その区間が正式に確定した。第1工区はデンチャイ~ラムパーム県ガーウまでの約103キロで、大手建設会社イタリアンタイ・デベロップメントが主導する共同企業体が受注。ガーウから先パヤオを経てチェンライ市街までの第2工区(約132キロ)と、その先のチェンコーンまでの第3工区(約87キロ)については同業のチョーカンチャンとシノタイ・エンジニアリング&コンストラクションの企業企業体がタイ国鉄と契約を交わした。

工事にかかる大きな難所も3つある。うちの2つが、プレー・ラムパーン県境に位置するメーヨム国立公園付近とその先パヤオにかけて広がるドーイ・プーナーン国立公園のそれぞれ西側を進む区域だ。付近は自然豊かな山岳地帯で、野生のクジャクが見られるエリア。開発には国の許可が必要で、厳密に管理されている区域だ。

もう一つがチェンライ市街から北東にメコン沿岸を目指す一帯だ。このエリアは進むにつれて急峻な地形となり、幹線と呼ばれる自動車道もほとんどない。アクセス道も南北に大きく迂回してチェンコーンにたどり着く陸の孤島となっている。このため、資材の運搬などにも一定の困難が予想されている。

ただ、工期は当初どおり25年の完工で固まった。用地買収の後は即時着工し、コロナ禍による遅れを取り戻す計画だ。景気刺激策としての役割も期待されている。

パヤオを起った列車は国道1号線に沿って北上し、約100キロ先でチェンライに到着する。盆地を形成する広域市街地は400平方キロほどもあり、東京・山手線の内側が6個分もすっぽり入るほど。ほぼ全域で水田が広がっており、この豊かな自然の恵みがかつてこの地にあったラーンナー王国の力の源泉となってきた。

それでも、16世紀半ばにはビルマの攻撃を受け、約200年あまりにわたってその支配下に。独立を勝ち取った後は王国の再興を目指したが、やがてタイ・チャックリー王朝の属国となって、1910年にはチェンライ県が設置された。以後、タイ最北部の中心をチェンマイとともに分け合っている。

チェンライに鉄道の建設計画が初めて持ち上がったのは1880年代。イギリスの民間企業によるものだった。当時、アジアの植民地化を進めていた同国は、支配下にあったビルマから中国・雲南省に向けての鉄道建設を計画。ミャンマー東部モーラミャイン(旧モールメイン)からタイのターク、ラムパーンを経てチェンマイに至る鉄路の建設申請をタイ政府に行った。

ところが、この路線が開通すると、タイ北部の経済圏がビルマ側との結びつきを強めることが明らかとなり、国土分割の恐れが現実味を帯びる。結果、危機感を抱いたタイ側の強い拒絶によって、同計画はいったん白紙に戻されることとなった。

再び、チェンイへの鉄道延伸が持ち上がったのが、前号で紹介したタイ鉄道局による1906年策定の鉄道建設計画の時だった。計画ではチェンセーンまでの延伸予定を10年後とし、メコン川を渡河してラオスに渡る可能性にも含みをもたせていた。だが、財源難やマレー半島を南行する南部本線の建設が優先された結果、計画はまたもや見送られることになった。

タイの鉄道建設史にチェンライの名が幾度か後に再び挙がったのが、マレーシアの提唱で95年に検討が始まった東南アジア縦貫鉄道構想だった。マレー半島からタイを経由、中国・雲南省を結ぶ鉄道の建設が、メコン川流域国の経済成長を後押しするとされた。そのルートの一つに、デンチャイから分岐し、チェンライを経由、ラオスのルアンナムターから雲南省昆明に至るルートが盛り込まれた。メコン経済圏の南北回廊とも重なった。

こうして歴史上幾度も浮上しては、消えてきたチェンライへの鉄道延伸計画。その発端の構想からは1世紀有余年を超え、いよいよ現実のものとなろうとしている。それはまた、メコン流域圏の新たな歴史の始まりでもある。(つづく)

 

22年3月7日掲載

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