タイ鉄道新時代へ
【第1部/第8回】タイ国鉄 近代化の一歩
吾輩は猫である。
第2次世界大戦への参戦により国内鉄道網が大きく破壊・寸断されたタイ。戦後復興のカギを握ったのは、スコータイ王朝下、ラームカムヘーン王碑文にも登場する肥沃な国土がもたらした大地の恵み「コメ」であった。戦後の混乱で慢性的な食糧不足に陥っていた国際社会に、タイは積極的にコメを提供した。その〝対価〟として贈り届けられたのが、鉄道の再興に欠かせない蒸気機関車や貨車だった。だが、全面的な復興に至るまでには財源不足が深刻で、一部の新線建設と路線の補修を除けば、その歩みは極めて遅かった。タイ鉄道網の戦後復興2回目。新線建設のその後と近代化の第一歩についてお伝えする。(文・小堀晋一)
戦前の1941年に策定されたタイ国鉄近代化のための「全国鉄道建設計画」は、2度の改訂を経て戦後になっても遅々として進まなかった。その主要な原因はひとえに財源不足にあった。世界銀行からの借款は破壊された施設の修繕や機関車、貨車などの購入に限定され、新線建設への投入は固く禁じられていた。このため政府は、計画を「優先路線」と「後順位路線」の二分し、限られた資金を特定の路線建設に集中的に投下することにした。この時の優先路線が、前回第7回でも提示したケンコーイ~ブヤアイ間などの3路線だった(略年史参照)。しかし、「優先」とは言いながらも、これら路線も結局、全体の3割ほどしか開通させることができず、後順位とされた3路線(同)は事業着手にも至らずに58年に計画の中止が決まった。
一方で、既開通路線では、戦後のエネルギー転換や自動車輸送との競合から、鉄道の「近代化」が要求された。近代化とは①高速化(到達時間の短縮)、②牽引力の向上(輸送量の拡大)、③運行の高頻度化(列車本数の増加)をおおむね意味する。これらは1950年代後半から60年代にかけて集中的に実施・改善が為され、戦後の国土発展の大きな下支えとなった。そして、それらを実現させる大きな要因の第一が蒸気からディーゼルへのエネルギー転換だった。
タイ国鉄に導入された機関車が当初は蒸気機関車が大半で、戦時中の日本や、戦後にアメリカなどから大量に調達されたことは前号で書いた。ところが50年代末になると、蒸気機関車向けの薪の枯渇が深刻となり、政府は61年、機関車の全ディーゼル化を決定した。この時、タイ国鉄が所有していたディーゼル機関車は全機関車の20%ほど。同じ年に策定された第2次機関車調達計画では、米企業などから一気に60両ものディーゼル機関車が納入されることとなった(このほかに無償援助や借款供与が計10数両ある)。レールの重軌条化が進む前であったことなどから、軌道負荷が少ない液体式が中心だった。
67年策定の第3次機関車調達計画では、さらに78両のディーゼル機関車の調達が決まった。うち50両以上はフランスの車両メーカー・アルストムから、残りを欧州の企業が落札した。アルストムは、それから半世紀後のバンコクメトロ(MRT)の入札でも登場するなど、タイとは何かと因縁が深い。軌道強化が進んだ後だったこともあって、この時は電気式ディーゼル機関車が主役だった。また、このころ、床下にディーゼルエンジンを搭載したディーゼルカーも積極的に導入が進められた。新潟鐵工所や東急車輛といった日本企業からの納入が多かった。
このようにして、ディーゼル化が進められた結果、タイの国土を運行する機関車は大きく様変わりを遂げた。60年初頭に約300両あった蒸気機関車は80年末には1桁台に、代わって同時期に全体の6分の1ほどしかなかったディーゼル機関車が80年末には300両近くに達した。蒸気機関車は鉄道記念日などのイベント用に残されただけで、ディーゼル化の進行とともに歴史的な役割を終えた。一方、鉄道の復興とともに客車も右肩上がりに増え、約800両あった60年初頭から80年末には1200両近くにまで達した。その一部はマッカサン工場などでタイ人技師らにより建造もされた。
自動連結器の導入も近代化の主要な原動力となった。戦中戦後、タイにあった鉄道車両の連結器は最大負荷が10トンと輸送車両としては極めて脆弱だった。丘陵・山岳地帯に差し掛かる東北部本線ケンコーイ~コーラート間と、北部本線のラオス国境に近いウッタラディット(ウッタラディット県)以北チェンマイに至る区間では、勾配がきつく、差し掛かる度に列車を2~3分割しなければならなかった。このため上り坂に強い大型の関節式機関車を導入するなどしたが、限界は明らかだった。コメ輸送など貨物需要が多い東北部本線でそれは顕著で、バイパス線であるケンコーイ~ブヤアイ間の全線開通を60年代後半まで待たねばならなかったことから、連結器の改善が急務とされた。そこでタイ政府は、世界銀行の第2次借款を活用。走行する全車両を対象に、最大負荷が従来の3倍となる自動連結器を導入することを決め、直ちに実施した。全ての整備が終わったのは60年末のことだった。
レールの改修も鉄道の近代化に大切な役割を果たした。戦争を挟んでその前後に敷設されたタイのレールは、当初から10トン程度の比較的軸重の軽い軽便鉄道などの走行を想定していた。ところが、戦後、復興が進み、物流の高速化、交通量の拡大などが求められるようになると、そのままでは脱線の危険が常に付きまとう事態となった。そこでタイ政府は、段階的にレールの交換を実施。60年末までに総延長約3500kmの半分程度を重軌条化した。一部は従来の軽軸重のままで残ったため他国と比べて決して十分とは言えなかったが、それでもタイにおける鉄道の近代化の中で果たした役割は大きかった。
これらの改善・改修を重ねた結果、タイの国鉄は、スピードアップを実現化し、輸送量を高めていった。蒸気機関車から牽引力の高いディーゼル機関車にエネルギー転換がされたため、最高速度が上昇し、薪を補給する時間が不要となった。自動連結器を導入したため、手動による連結作業時間もなくなった。レールが重軌条化したため、高速度で走行することが可能となった。
この結果、利用者は増え、輸送量は拡大していった。戦後まもなく年間2000万~2500万人程度だった旅客は約10年後の60年には4000万人を突破した。同様に、150万トン程度だった貨物輸送も60年には倍以上の400万トン近くにまで拡大していった。利用客の増加は経営の安定化にもつながり、運行本数の増発ももたらす。それまで1日あたり1~2便、せいぜい3便程度だった運行本数が普通列車を中心に増発されるようになった。
バンコク周辺部では、単体でも走行可能なディーゼルカーが庶民の足となって活躍した。従来の鉄道は連結された客車と貨車を機関車が牽引する編成が一般的。ただ、これでは荷下ろしに時間を要し、機動性を発揮できない。小回りの利くディーゼルカーが好まれた。荷を担ぎ都市部に向かう人、地方に商用で出かける人、遠方の親戚を訪ねる人…。鉄道が経済を好転させ、人々の暮らしを向上させていった。タイ国鉄の近代化の一歩だった。(つづく)