ミャンマーの謎めいたインド国境地帯(上)-秘境の町タム-

アジアのフロンティアと呼ばれるミャンマーの中でも、最もフロンティアな土地であるインド国境を訪ねた。ミャンマーのザガイン管区タム(TAMU)がインドとの国境で、そこを越えるとインドのマニプール州モレ(MOREH)。アジアハイウェイ1号線(AH11)がベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーを横断してタムからインドに入る。日本軍が敗退したインパールは110キロの先にある。

ザガイン管区の人口は約500万。同管区を遠距離バス、現地の旅行会社の車、友人が手配してくれた白タクなどを使ってすべて陸路で巡った。ヤンゴンでは、バス会社でタムまでの切符を買おうとすると、「外国人にはカレーまでの切符しか売らない」と断られた。観光当局で「現在では外国人もタムを訪問できる」という答えを得て再度、切符を購入しようとしたがやはり拒否された。仕方なくカレーミヨ(KALAY MYO、MYOは町の意味で一般にカレーと呼ばれている)までバスで行き、そこから数時間先のタムまではタムの旅行会社の車に迎えに来てもらった。

タムのインド国境ゲートのミャンマー側には「ナンパロン(NANT HPA LON)市場」が広がっている。ほとんどが遠い中国国境のムセ経由で入ってきた中国製の毛布、防寒衣料、履物などで、プラスチック製品にはタイ製品が多かった。インドの綿、毛布やシーツや衣料、薬品、香料、ステンレス製の食器、中古も含む自転車、お菓子、一部家電なども販売されている。タイ製品は中国製品に比べると少し価格が高い。店の人が「タイ製品はタイ国境のミヤワディから入ってきた」と説明した。

ザガイン管区内の各地も訪問したが、同管区最大都市で観光資源も多いモンユワでさえ、小奇麗なホテル、レストランなどが皆無に等しいのが現状。

 

インドと結ぶアジアハイウェイ

カレーとタム間の約140キロの道路は舗装されているが道幅が狭い。「インドミャンマー友好道路」と呼ばれており、インドが支援しているアジアハイウェイ1号線である。途中に90以上の小さな橋があるが、橋げたの上に鉄板を並べただけなので、車が通過するたびにガタガタと大きな音がして車内での会話も中断される。

2016年10月にミャンマーのアウンサン・スーチー国家顧問がインドを訪問した時、モディ首相と『インドミャンマー友好道路』の整備を早めることでも合意している。私が乗った車の運転手は「タムからモンユワまでの400キロほどの道は、かつて片道2泊3日かかったが、インドが道路を整備してくれてからは10時間ほどで行けるようになった」と感謝していた。

雨季には道路事情が悪化する。運転手によると2015年7月には10日間に渡り、洪水で道路が通行不能となった。屋根まで浸水した家の住人のためにカレーからタムにかけてインド側の高台に新しい家の部落があちこちに出来ている。今後の治水対策も必要だろう。

ミャンマー第2の都市であるマンダレーからモンユワまでの100キロは3本の道路が結んでいる。高速道路ではないもののアスファルト舗装で快適だが、モンユワからカレー間の約320キロの多くが未舗装の悪路。カレーの近くを流れる大河がエーヤワディ河最大支流のチンウイン河で、鉱山で使う機械などの輸送が船で行われている。

 

タムのインド人向け市場

インドとの国境の町であるタムの中心部人口は8,000人程度。タム中心部に到着する4マイル手前に、英語で『BORDER TRADE TAMU』という看板が掲げられたチェックポイントがあった。ミャンマーの警察、税関などが一体となって、通過する人、トラック、乗用車などすべてをチェックしている。「日本人が乗っている」と運転手が申告したため、私はパスポートを持って事務所まで来るように言われ、担当官から訪問理由を聞かれた。翌日、タムから去る時も同じ場所で同じチェックがあった。このチェックポイントで渡した私のパスポートのコピーは返ってこなかった。少々高かったものの地元タムで有名な旅行会社の車をチャーターしていたから簡単な質問だけで済んだのだと考えた。以前、ミャンマーと中国間の最大の国境であるムセを訪問した帰り道、チェックポイントで「出国」証明がないと言われてバスから荷物ごと降ろされて、ムセの「入国」管理事務所に戻って「出国」証明をとった苦い思い出があり、タムでは同じ失敗は繰り返さずに済んだ。

『BORDER TRADE TAMU』に入ってきたミャンマーの大型トラック(写真)数台は、「ビンロウの実」を満載してインドに向かおうとしていた。ミャンマーで「コンヤ」と呼ばれる、キンマ(コショウ科のつる性の緑色の植物)の葉に包んで噛む嗜好品(口が真っ赤になる)の材料だが、インドでもこの市場が大きいことがわかる。他にもミャンマー産の豆類を運ぶトラックが多く、両国とも玉ねぎも不可欠な食材だから時の相場によって安い方の国から相手国に向かう。かつてはチークの輸出が多かったが、現在はチークがなくなり松などの木をインドに輸出、さらに中近東まで輸送していると聞いた。

「ナンパロン市場」から国境に向かって左に進めばトラックなどのゲートがある。インド側から来たトラックはミャンマーに入る場所で荷物をミャンマーのトラックに積み替えなければならない。許可を得たミャンマーのトラックは、デリーまででも走行が可能だという。

かつて「ナンパロン市場」で多かったインド人の買い物客は、2016年11月8日以降に激減した。それは同日、インドのモディ首相が突然、インドの高額貨幣である500ルピー札と1,000ルピー札が無効化したからだ。理由は野党の地下資金(ブラックマネー)を排除するためだとも報道されている。金額ベースでインドの現金取引の9割ほどを占めるこの紙幣の突然の無効化でインド経済は大混乱し、国境貿易の町であるタムにも大きな影響を与えた。新たに発行された新500ルピー札と新2,000ルピー札はインドの最果ての地にはすぐには届かず、従来通り使える100ルピー札(約160円)での取引は続いていたという。中央銀行の100ルピー1,906チャットという公定レートを1,600ルピー以下に下げた取引もあったという。

「ナンパロン市場」横の国境の鉄条網の先、インド人のスラムの生活が見える場所では「ミャンマーよりも貧しい」と案内人がもらした。両国人は簡単な手続きで国境を通過できるが、インド側に出るミャンマー人はほとんどいない。国境ゲートから少し離れると国境線も確かでなく、地元民は自由に往来している。10ルピー(約20円)支払って正規の国境からミャンマーに入国するインド人は、この市場で買い物だけする。中にはタム中心部のレストランまで出て食事する人もおり、「ミャンマーは安くておいしい」と言うインド人が多いとレストランの経営者が言った。だがインド人はタムのホテルには宿泊せず日帰りでインドに戻って行く。

 

浸透する中国製スマフォ

到着した夜、宿泊したホテルでタム一番のインド料理店を紹介してもらい、友人や世話になった銀行支店長を招いた。他の大手銀行の支店長クラスが食事に来たが、屋台に毛が生えた程度の店でがっかりした。食べ過ぎた筆者は運動のためホテルまで一人だけ歩いて戻った。途中、空は満天の星で美しかったが、町は真っ暗で寂しい限り。この辺りのほとんどの川は清流だから暑い季節になればマラリア蚊が怖いと感じた。

ミャンマーでは軍政時代にスマートフォンはなかったが、今やインド国境まで浸透しており、タムでは中国製の「OPPO」ブランドを扱う販売店が最も多いと感じた。「タムでは最高」というホテルに泊まったものの、ゲストハウスに毛が生えた程度。1泊50ドルはミャンマーの地の果てのホテルとすれば高く、朝食もついていなかった。タムのレストランでもチン族が経営するところが多く、山岳地方のチン州に住むチン族は野菜料理を好むことからレストランでも野菜料理が多い。いつもミャンマー滞在中に閉口するミャンマー料理の脂っこさが少なく助かった。

ミャンマーには反政府武装勢力が多く活動しているが、このタム一帯ではミャンマー側の反政府勢力の活動はないようだ。だが、反インド政府のインド人武装組織が7つも活動し、その活動が始まるとインド側からの要請でたびたびゲートが閉じられてきた。ミャンマー側の要請でゲートを閉鎖したことはないという。現地のガイド兼運転手から「この辺りはインドの秘密警察などもいるから写真撮影は気をつけて。特にインド側にカメラを向けないで」と注文された。ただ一体どこに秘密などあるのか。タムは現地のミャンマー人は「タッムー」と発音し、「位が高い兵隊があつまっている場所」を意味するという。中国国境のムセあたりと同じでインドとの国境には無数の密輸用の抜け道があり、南に隣接するチン州でもインドとの国境貿易が多いと聞いた。(つづく)

(写真・文 アジアジャーナリスト 松田健)

 

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